あらポタです。
どうも最近悩むことがあり、先日こんなことをネットで見た気がしたので紹介します。
その言葉は、『あきらめる』の本当の意味についてです。
諦めるという言葉は、本来悪い意味ではない
日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつもありません。〔つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと〕
さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉です。
諦の意味は日本語では
「明らか・明らかにする」
に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。
ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、
「望んでいることを途中でやめる」
という意味ばかりで使われるようになってしまいました。もったいないと思います。
仏教では「諦」と「明」の合体した「あきらめ」こそ、いつでも、どんなことが起こっても、心が苦しまず、おだやかでいられる境地(悟り)に至るために大切だとします。
要するに、明らかになったから、あきらめるということなんですね
途中でギブアップは、あきらめることにならないということなんです。
ではどうすればいいんでしょうか?
私にはあきらめることすらできないではないですか????
たとえば、会社勤めをしていて、日々暮らすだけのお金はあるけど「もっとお金が欲しい 」という都合(欲)があって、常日ごろからイライラしているとします。
お金がないのでお金が欲しい、もっとお金が欲しいと日々考えていれば、誰だってなかなか心が落ち着かないでしょう。もし心穏やかに生きたいと望むなら、とことん自分の都合を明らかにしないとお金への過度な欲は諦められません。
具体的には、まず、自分はお金があったら何をしようとしているのだろうと考えるのです。家を買う、車を買う、旅行に行く、美味しいものを食べる……。これらはすべて自分が幸せになりたいという夢であり、都合であり、欲です。つまり、自分が幸せになるための手段としてお金が欲しいのです。
ここで明らかになるのは、“お金は手段であって目的ではない”ということ。これがわかれば、手段でしかない目先のお金の周囲を右往左往している自分の姿がありありと浮かびあがります。
もちろん、生活をするのに必要なお金というのはもちろんあるでしょう。お金を全否定するわけではありません。でも、それが自分の幸せとどう関係があるのかを考えてみれば、少しは心に平穏が訪れるのではないでしょうか。
要するに、手段が目的になっていないかということでしょうか?
ものごとの考え方を突き詰めて考える。。。。そこにあきらめがある。
このように、物事が明らかになった時のキーワードが
「仕方がない」や「当たり前」という言葉になるんですね
「あきらめる」って言葉は魔法の言葉。
中途半端にギブアップという意味での「諦め」をするのではなく
物事の真相を明らかにした上で諦めたことは、その後の人生も豊にするということを感じました。